中宮寺 本尊如意輪観世音菩薩半跏像

飛鳥園のあゆみ

大正11年(1922年)

 小川晴陽により、仏像写真の撮影と販売を専門とする飛鳥園が創業された。
その後、創業以来のままの古屋の改築の必要にせまられていたが、ようやく築90年との決別を決め、2000年の春に新社屋の設計がまとまった。

興福寺より古材、薬師寺より敷瓦をいただく

 たまたま興福寺に用途の決まらない江戸時代の古材があると聞き、古都にふさわしい建物にするには恰好と多川貫首にお願いしたところ、約20本をこころよく譲って頂けることになった。
  また、薬師寺からは大講堂の建立にともなって解体された、江戸時代の旧講堂の敷瓦約400枚を提供してくださるというありがたいお話。お寺から御綱喜捨という、まさに仏様のおかげを頂戴しての改築となった。
  しかし、問題は社屋のある場所が、「歴史的風土特別保存地区」に指定された春日野の中心部、「古都保存法」が大きくたちはだかる風致地区にあたっていることで、設計者の松田靖弘氏は役所と何度も交渉を重ね、図面を5回も書き直さねばならなかった。

発掘調査〜興福寺塔頭如意輪院跡

 つづいての関門は、事前の発掘調査である。江戸時代の古図によると、ここは興福寺の境内の東端、塔頭の如意輪院跡とされている。トレンチを入れて重要な遺跡があれば、計画はすべて御破算になりかねない。仮事務所に移転したあと早速に行われた橿原考古学研究所の調査では、案の定小型の礎石が見つかり、そこから平安期の土器が多数出土し、治承の乱(1180年)の焼かれた痕跡も確認された。だが幸いそれ以上の発見がなかったため、基礎の一部を変更する程度で済み、九月の下旬からいよいよ工事にとりかかった。

氷室神社と吉城園、樹林に囲まれた敷地にバリ島の茅葺き

 飛鳥園は改築にあたって、一階は仏像など文化遺産の写真を中心としたフォトサロン、二階を事務所およびこれに付随する暗室と耐火構造の原版室、離れは企画展用のギャラリーにすることを大まかなプランとした。これを受けて松田氏は、奈良の環境に調和し、長年文化財の仕事に携わってきた飛鳥園にふさわしい建物であること、さらに敷地の東と北に隣接する氷室神社と県営吉城園の見事な樹林を生かした、空間にすることを理念に、設計図を引くことになった。
母屋の正面には赤い興福寺古材の柱、屋根はやや長い片流れで本瓦葺き。 建物の脇を細い路地裏風にして、奥の離れ屋の一部を見せる。その離れは茅葺き、しかも屋根裏の仕上げの美しさを考慮してインドネシア風にすることにした。バリ島から屋根材の茅と竹、それに四人の技術者をまねいて、常夏の国の人には気の毒であったが、二月の寒いさなか約一カ月がかりで屋根を葺いてもらった。
この離れ家の柱や梁などの主な構造材は興福寺の古材を使用したので、インドネシア風の屋根との調和が気になっていたが、完成してみるとまったく違和感がない。あらためて環太平洋文化の一体性を感じた。また離れ屋の東側にとった庭のスペースと、隣の氷室神社の奥深い樹林との調和も自画自賛したいほどのもので、ここをティーガーデンに開放して好評を得ている。

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